名古屋大学大学院理学研究科 物質理学専攻(化学系)/ 名古屋大学理学部 化学科

化学科の歴史(令和元年12月末日現在)

名大化学科 終戦~昭和63年

化学科の転換期:「教育」と「研究」を備える

平静を取り戻しつつあった戦後、化学科は転換期を迎えます。1948年12月、化学教室創設の中心であり初代理学部長であった柴田雄次が辞任し、東京都立大学へ移りました。1949年には、物理化学第二講座の教授森野米三が東京大学へ転出し、後任に元京城大学*1教授で戦後引き揚げて第一高等学校教授*2となっていた久保昌二が着任しました。

さらに1954年4月、第六講座として生物化学講座が新設されました。それまで有機化学講座を担当していた江上不二夫の化学領域は実は生物化学であり、有機化学を専門とする助教授の平田義正がこれを助けて、同講座は研究面では事実上二研究室として運営されていたのです。これを分離して二講座にしたいという長年の念願が、勝沼学長*3の理解と援助のもとにようやく実現したのである。有機化学講座の教授には平田が昇任し、江上は生物化学講座を担当しました。

1953年3月、鉄筋本建築の理学部A館の一部が完成し、まず分析化学講座が移転しました。同館は以後小部分ずつ増築され、講座単位で移転が行われたが、1957年12月生物化学講座を最後として、ようやく全講座の移転が完了しました。


1950年代から研究条件も次第に改善され、1957年には英国ヒルガ一社のH800赤外線分光光度計、1958年には日本電子工業株式会社の高分解能核磁気共鴫測定装置が導入され、その後も質量分析装置、旋光分散・円偏光二色性測定装置など、エレクトロニクス技術を駆使した機器分析装置が各種研究費によって購入されました。これらの機器の導入は化学の各分野に画期的な発展をもたらし、分子の物理化学的性質を測定することによって、化合物の同定や分子構造決定に関して、これまでに得られなかったような細部にわたる正確な知見が得られるようになりました。このように、戦後10年余りたってようやく「教育」「研究」という大学組織の二本柱が備わったことになります。

1958年、生物化学講座を担当した江上は東京大学へ転出することになりましたが、その後1960年9月まで併任教授として同講座を担当しました。江上の後任選考の過程で初めて人事委員会が設立されることとなります。それから1年後、1961年10月人事委員会の規則に従った手続きによって、名古屋大学教養部助教授鈴木旺が後任教授として理学部に移り、生物化学講座を担当しました。なお、1960年10月から1年間、農学部の瓜谷郁三が併任として生物化学を教授しました。

"第二化学科" -化学講座6から9つへ-

1963年3月、設立当初の教授であった菅原健が定年退官し、後任に助教授であった田中元治が昇任しました。このころから、研究分野の拡大と学生数増加の要求に対応するため、第二化学科設置の計画がたてられていました。1964年になってようやく3講座増、学生定員50名という化学科の拡充改組が実現しました。*4

1965年3月、新設の第七講座(固体化学講座)に、東京大学物性研究所助手であった田仲二朗が講座担当助教授として着任し、翌年4月教授に昇任しました。次いで、1967年1月、第八講座(同位体化学講座)教授として、立教大学教授であった山寺秀雄が着任しました。さらに、1968年2月、第九講座(反応有機化学講座)に京都大学から野依良治が講座担当助教授として着任し、1972年8月教授に昇任しました。このように講座増は実現しましたが、講座数9というのは総合大学の中ではかなり小規模なものであり、さらに第二次の拡張が望まれました。

新講座がそれぞれ充実して活動を開始する一方、1972年3月には創設時の教授であった佐野保、1974年3月には山崎一雄と久保昌二が定年退官しました。佐野の後任には助教授池田勝一が昇任しました。山崎の後任教授には東北大学助教授であった藤田純之佑を迎えることとなりました。久保の後任には助教授中村大雄が昇任しました。

A2号館の新設 -化学科の成熟-

A2号館が新築され、学生実験室、無機化学講座、有機化学講座、反応有機化学講座がここに移りました。学生実験室はそれまで2室あったが、移転を機にカリキュラムの実情に合わせて1室に統合されました。

1979年3月、平田義正が定年退官し、後任に助教授山田靜之が昇任しました。また、1978年、大学院理学研究科宇宙理学専攻課程が新設され、その中の一部門として宇宙分子化学部門が創設されました。この部門は当該専攻と化学専攻との取決めで実務的には化学専攻として運営されることとなり、60年に担当教授として分子科学研究所助教授斎藤修二が着任しました。

1983年には大講座制の教養部教官による分子物性講座が発足し、化学専攻の一部門となりました。1987年3月、山寺秀雄が定年退官し、後任に金沢大学薬学部教授であった山内脩が着任しました。
化学科の学生定員が50名に増員されたのは1964年でありましたが、ちょうどこの頃、公害が深刻な社会問題となっていました。化学はその原因を作った学問であるということから化学系学部への進学志望者が激減しました。本化学科もこの影響は累を及ぼし、公害問題が一応の解決をみた後も化学系志望者数の低迷は続きました。ところが、1981年に高等学校教科の指導要領の改定があり、この課程を履修した生徒が大学進学を迎えた1984年以降、化学系志望者数は急激に増加することとなりました。さらに学齢期年齢の人口増により、文部省の要請に従って1987年から学生定員の臨時増募が施行されました。化学科の学生定員はこの年55名となり、続いて1988年にはついに60名となりました。*5